3月4日(水)に放送した GLOCAL KYOTO 水曜日では、「春のゲストトーク スペシャル」と題して、約2年ぶりのご出演となる 真宗大谷派 小野山 浄慶寺(じょうきょうじ) ご住職の中島 浩彰 さんをゲストにお迎えしてお話を伺いました。
「こんなご時世だからこそ、ぜひ僧侶の方に心の話を語ってほしい」という思いをお持ちの方も、多くいらっしゃるのではないでしょうか。通常の番組レポートとは異なり、今回は特別バージョンとしてご住職のお話を余すところなくお届けいたします。番組を聴いてくださった方も聴けなかった方も、ぜひぜひお読みくださいませ。
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巻頭グラビアデビュー!? バーテンダーの経歴が長いご住職
― 2年ぶりのご出演となります。
ついこないだ来たような気がするんですが、もう2年も経っていると思うと早いですね。
― 2年間、さまざまな出来事があったと思いますが。
「国境なき僧侶団」という活動をしていまして、他の宗派のお坊さん方と一緒にイベントなどをさせてもらっています。そのうちのひとつに「なんぞ四僧な会」という、四人のお坊さんで全国いろいろな場所に呼ばれて行って、お話をするというものがあります。
この2年の間には、東京や札幌などでお話をさせていただく機会がありました。その時のご縁がきっかけで、とある雑誌の取材を受けることがありまして。
― どんな雑誌ですか?
「実際にあった怖い話」(2020年1月号)という雑誌です。タイトルを見ると怖い感じで、私自身その雑誌を見たことはありませんでした。編集者さんからお話が来た時「こんな雑誌なんですけど、出ていただけますか?」と言われました。
タイトルからしてそうなんですが、数ページ切り抜いたものを見せてもらうと、「この雑誌に載っていいのだろうか」とかなり躊躇はしましたね(笑)
― いわゆるホラーや、怖い話がお好きな方向けということですね?
そうですね、思いっきりカルト系のイメージのあるような雑誌だったんです。
― そういった雑誌だと、心霊などのイメージを思い浮かべますが。
えぇ、もしそういう類のものであればNGだなと思っていたんですが。
編集担当の記者さんがとても紳士的で、好意的に捉えてくださいましてね。昨今ちやほやされている、仏教の上滑りするような話やチャラチャラしたものではなく、地に足のついた活動をしているお坊さんのリアルな活動を見たいと思われ、面白いと興味を持っていただけたようです。特集を組んで、雑誌の巻頭グラビアにカラーで載せていただきました。
― 「カフェ&バール蔵は寺にあり」。まだ足を運んだことがない人にも、しっかりと中の様子が伝わるような写真とともに紹介されていますね。
お寺でバーをしているのが、うちの寺のひとつの特長です。近年、坊主バーという名前が流行っていて、ちょくちょく聞きますよね。京都に限らず、東京・大阪などいろんなところで、そういった活動をされている方もあるようなんですが。多くの場合、どこかのスナックやバーなどの場所を借りて、そこにお坊さんがバーテンとしていらっしゃるみたいです。
うちの場合は、自分の寺の中にある蔵をDIYで改装して、そこで「趣味の部屋」的に不定期で開くスタイルです。お寺の中にあって、飲食しながらお坊さんと仏教の話をできるのが面白いのかなと思っています。
― お寺の中というのは、なかなか他ではないですよね。住職自らが、バーテンダーとして腕をふるって美味しいお酒を出してくださるのだとか。
そうですね。住職になってかれこれ20年ほど経ちますが、職歴としては住職の次に長いのが、バーテンなんですよ。なので、趣味と実益を兼ねてやらせてもらっています。実は私自身、お酒が飲めないんですよ。
― それも珍しいですね。
えぇ、自分自身は飲めなくても、お客さんにはお出しできます。若い頃は、お酒が飲めると思っていたんです。人一倍、かなり飲む練習をしたつもりでしたが、体質的にアルコールを体が受け付けないことを知りまして(笑)。お酒を飲んで気分が良くなったことがないんですよ。
「練習が足りないだけだ」と言われて、さんざん練習したんですけれど、どれだけ練習をしても気分が良くなったことがないまま今日に至っています。
― 合わないものは合わないと。
そうですね。でも、お酒を飲んで気分が良くなられる方が多いので、そういう姿を見させてもらったり、自分と同じように「私は飲めないんです」という方にも、ノンアルコールのカクテルを作って差し上げたりしています。飲める人も飲めない人も、雰囲気としては同じように過ごせるというのが大きな特長かなと思います。
心のハードルが下がるよう、開かれたお寺へ
― バーに来られる方、檀家さんなどから、普段どういったお悩み相談をされることが多いですか?
悩みとしては、時代のせいなのか景気のことを言われる人、あとは夫婦間のことや子育てについての相談が多いですね。まったく初対面の方が、飛び込みで急にいらっしゃることもあります。
お寺にはじめましての方がそういった相談に来られる場合、既にかなり深刻な状態であることが多いです。
― 思い詰めていらっしゃると?
行き先がなく困って、最後にお寺を訪ねて来てくださるというのは、僧侶としては大変ありがたいことだと思っていますね。
― できるだけ、その方に寄り添ってお話を聞かれるんですね。
こちらから回答できることって、実はそんなにあるわけではなく、また回答できると思って言っていることって、たいていはその通りにはいかないんですよ。
お寺まで足を運んで聞いてもらいたいこと、訴えたいこと、わかってほしいことというのを、本人さんはだいぶ溜めて背負って来られているんです。それを、一緒に聞きだしていくのがすごく大事なのだと、出会わせてもらった皆さんを通じて感じるところですね。
― そういった方が足を運びやすい場所づくりに、力を入れていらっしゃるんですね。
うちのお寺って、京都の真ん中で立地条件は比較的いいんですが、観光寺院ではなく檀家さんも少ないので、以前はあまり人が来なかったんです。人が来ないところというのは、お寺に限らず寂れていくもので、雰囲気もあまりパッとしないじゃないですか。
そのこと自体が、自分自身ちょっと嫌だなぁとずっと思っていました。何か活気づいたお寺にしたかったんです。皆さんからいろいろなお話を聞いている中で、「お寺って、敷居が高いよね」と言われることが多くありました。
観光寺院ならば、高い拝観料を払ったら入れるという意識はありますが、コンビニよりも数が多いと言われる、ごく一般的なお寺は入りやすいのかというと、やはり入りづらいですよね。
その理由の一つは、門が閉まっていることだと思うんです。治安や防犯のことを考えると、常に開けっぴろげというわけにはいかないかもしれませんが、閉じたままというのは圧迫感があるというか、敷居の高さを感じさせる元になっているのではないかと感じています。
なので、うちのお寺では、基本的に中に誰かがいる時には、門を開けておくようにしています。ただし、治安のこともあるので、一応、柵だけはしています。中は見えてもパッとは入りづらいかもしれませんが、とにかく明るくするというところから始めてみたんです。
とはいえ、柵を越えて入ってくる、玄関のベルを鳴らして入ってくるのは勇気が要ると思います。けれども、一度でも足を運んだ場所であれば、声をかけやすかったり入りやすかったりするのでは? という思いから、お寺でいろいろなイベントをするようになりました。
― 最初のきっかけとして、入りやすくするための様々な取り組みなのですね。
そうした活動が続いていくと、実際にはまだ来たことがない人にも、「そういえば新聞で見た」とか「あそこで何かやっているらしい」という噂が広がっていきます。それがやがて、「行ったことはないし初めてだけれど、あのお寺の呼び鈴なら鳴らしてもいいのかな」という気持ちに繋がり、突然の来訪になるのではないかと思います。
― 心のハードルが下がって、「何かあった時に訪ねて行くならあのお寺」だという意識が芽生えるんですね。
「私というもの」を気づかせてもらうのが仏教
― 昨今の様々な社会問題や大きな災害、また京都アニメーションの放火事件、学校現場でのいじめ問題といった辛く悲しい事件などについて、僧侶のお立場からどのようなことを思われますか?
京アニ事件に関しては、たまたま近くにお住まいの檀家さんから当日の様子を聞く機会があって、切迫する怖さを感じました。ただ、多くの場合、こういった事件のことはメディアから聞くんですよね。遠くでの出来事も近くに感じられるようになっているのが、もちろん良いこともありますが、怖さをどんどん膨れ上がらせてしまっているように思います。
京アニ火災にしても、教師が教師をいじめるといった事件にしても、人が人に対して起こしていることって、所詮は他人事なんですよ。それをメディアが報道して、報道を聞いてあーだこうだと言って不満を感じたり、批判をしたりしているだけです。確かに報道を通じて、いろいろ考えることはあるでしょうが、多くの場合そこに誰か「悪い人」を作って、その人をいじっているという構図です。自分事にはならないんですよ。
他人のことを他人が言っているだけで、そこには気づきもなければ、本当は何の実りもなく、「自分はそうはならない」という次元で物事を捉えているに過ぎません。これって、普通に日常生活をしていると、私たちは当たり前のようにしてしまっていて、気づけないところではあるんです。でも実はすごく怖いことなんだなと、仏教を通して気づかせてもらうことがあります。
― 自分事でないというのは、安全な場所からあぁだこうだ言っているということでしょうか?
それもありますが、「自分は(あんな悪い人には)ならない」「私は違う」と思っていませんか? 自分は放火もしないし、周りの人をいじめるなんて、そんな悪いことはしないと普通は思っているじゃないですか。
でも、それは自分がしていることに気づいていないんですよ。学校の先生が先生をいじめていた事件について、もちろん最低だと思いますが、子どもたちの前では「いじめはダメですよ」と教えているんですよね。自分たちも、いじめをしているという自覚がないんです。
日常のちょっとしたじゃれ合いという認識しかなく、あのように取り上げられると、さすがに酷かったなと、人から言われるから思うだけで、それまでは日常の些細な1コマに過ぎません。自分のちょっとした息抜きや、発散の行為としてやってしまっているのです。
それは、こうして話している私自身も、私の話を聞いている皆さんも、何かしてしまっていると思うんですよ。でも、それは自分にとっては当たり前すぎて、悪いことをしている自覚がないんですよ。自覚のない行為がエスカレートして、事件化しているだけ。
テレビを見ながら、あんなのは…と言っている「私というもの」は、いったいどうなのか。その「私というもの」を気づかせてもらうのが仏教なのだなと、最近、仏教を通じて気づきを得ている大きな部分だと思いますね。
― なるほど。
仏教って、人が亡くなった時にお葬式をあげるなどの「先祖供養」のためものだとよく言われますが、お釈迦さまはそんなこと言っていないんですよ。
今生きている、今の自分の目の前では、様々な問題が起こり繰り広げられますが、目の前の出来事や問題と、自分に起こることとは別です。
自分は違うと思っていても、誰にでも「種」があって、放っておくと自分というものがどんどん肥大化していきます。私という存在は、最終的にはなくなっていくんですが、ついつい人は私の思い通りになる・ならないというところで物事を判断してしまうものです。
自分の思い通りになっていると「よしよし」と思いますが、ならないと「自分は悪くない」と思いがち。自分の都合ばかりを周りに押し付けていって、自分を省みることがありません。悪いこと、しんどい、つらいといった悩みは数あれど、仏教的には「私の問題」しか解決できないのです。
私にもし今つらいことが起きていたとして、それは私がつらいだけであって、表情などから「あの人、つらそうだな」思われることはあるかもしれませんが、周りの人が全く同じ状態になることはありませんよね。
― 確かに、それはできませんね。
でも、当人は死にたいくらいに苦しいかもしれないわけです。じゃあ、その死にたいくらいに苦しいのは何なのかというと、「私の問題」なんですよ。
私の中で起こっている気持ちであったり、体感であったり様々なんですが、これは、私(の中)から(外へ)出ることがありません。けれども、私たちはそれを越えて、「私以外のところ」に関しても私の問題だと思いがちです。
仏教というのは、どんどん私というものがハッキリしていく世界なので、私と私じゃないものが明確になるんです。そうすると、私が考えないといけない問題と、私が考えなくてもいい問題がわかります。私たちが考えなくてもいい問題を、私の問題だとして考えて苦しみ、つらくなっていることがとても多いのです。
― 「心の闇」と言われるような部分もそうなのでしょうか?
「心の闇」と言われるものは、仏教では「無明(むみょう)」と表現されることもあるのですが、分別がつかなくなってしまっていることが多いと思います。
他人の闇を知ったからと言って、私自身の闇が消えるわけではありません。私自身の闇に向き合っていくことがなければ、闇をほったらかしにしたまま、どんどん撒き散らしていくばかり。他人の闇を非難・批判して、私は関係ないというところでついつい広がっていきます。それが、いじめの根本的な問題だと思いますね。
― 昨今の、新型コロナウイルスに関しても同じようなことが言えそうですね。
そうですね。もし、私自身が感染して、熱が出てしんどいのならば私の問題なので、もちろん対処しなければなりません。仏教で念仏をすれば治るなどということはなく、ちゃんと病院に行って隔離や治療をしてもらうのが大事です。
でも、かかっていない私たちは、「かかるかもしれない」という不安のもとで、テレビで言っている情報を見聞きして、まるで自分のことのように思ってしまいます。例えば大阪のライブハウスなど(感染者が続出した特定の場所)に行っていない人までもが、そうした報道に振り回される必要はないはずです。
それなのに、「京都でも感染者が出た」と報道されただけで、周りの人も自分も不安になり、パニックになってしまう。それを見た周りの人が、またパニックになるから、余計に大きくなってしまっています。
私が私として受け止めなければいけない問題なのか、私とは切り離して見るべき問題なのか、ごちゃ混ぜになっている情報が多いですね。政府には政府としてしなければいけない問題があり、市民が市民として取るべき行動は別なのに、それぞれの立場や利害の部分で、非難・否定するばかりの報道が目立ちます。
私たちはスーパーマンでも仏様でもないので、決して万能ではないんです。100のことを言われても、実際にできるのはせいぜい1つ2つ。なのに、それ以上の情報を求めて、自分がパニックになってしまいます。本来ちゃんと聞かなければいけないところへ、耳を向けられていないように感じます。
足るを知り、有るモノに気づくことで楽しむように生きよう
― 情報過多の時代だからこそ、情報を整理して、情報との距離感を上手に取るということですね。
今、自分自身に実際に起こっていることを、ちゃんと自分で自覚して見るということです。耳ばかり大きくなってしまって、自分が今どんな風になっているかも気づかないままに、あたふたしていることほど苦しいことはありません。そういう状態に陥っている人が多いように思います。
私たちは、モノが有る時は当たり前で、それが無くなるとはじめて「有るありがたさ」を知ったり、無くなる不安を感じて一喜一憂、右往左往しています。それが無明だったりします。
そして、日々、諸行無常の中に生きている私たちは、思い通りになることはほとんど無く、また「同じように続くことも無い中に生きている事実」と向き合います。
「無いモノ」に不安を感じて萎縮するより、そういう時だからこそ、「有るモノ」に気付き目を向けて、楽しむように生きて行ければ良いと思います。それは自分を知ること、足るを知ること、となります。
― 連日の報道で不安になってしまう人々の行き場として、ご住職がお寺で何か対応されている取り組みなどありますでしょうか?
現実問題として、学校が休校になったりすると、働いている親御さんが困っておられますよね。子どもを預ける場所がある人はいいけれども、それがなくて困っている人に対して、少なくともうちの寺では、いつでも開いている寺でありたいと願っています。
坊守(=住職の妻)の理解もあって、時間の許す限り「子どもをみてほしい」「話をきいてほしい」という人をお受けするつもりでいます。ただ、法務があるので不在にしている時間もあります。事前に連絡をいただいた上で、気軽に訪ねていただければと思います。
― それは心強いですね。これから開催を予定されているイベントの情報も教えてください。
「夜聞願堂(よるもんがんどう)」という、一般の人向けに仏教を学ぶ勉強会を、月2回ほど開いています。事前申し込みをしてもらえると助かりますが、当日の飛び込み参加も歓迎です。また、3ヶ月に1回、若手の音楽家の演奏の場として設けている「テラの音コンサート」は、4月3日(金)に開催を予定しています。
― この機会に、ぜひ実際にお寺へ足を運んでいただければと思います。最後にリスナーの皆さんへメッセージをお願いします。
世間では浮いた話がなくなり、どんどん暗い話ばかりになっていますが、不足に心を奪われず、足るを知れれば、できること、味わえることもきっとあります。
学校が休校になる、職場が閉鎖や時間短縮になるなど、不平不満はあるでしょうし、尽きないでしょう。しかし、そこにとらわれず、「有る」に目を向ければ、これまでに無かった時間や場所、モノや人もきっとあるはずです。
幸い、京都にはたくさんのお寺があります。いい知恵を持っているお坊さんもたくさんいるので、街で見かけたら声をかけてみるのもひとつだと思います。年配のお坊さんには声をかけづらいかもしれませんが、比較的若いお坊さんも増えてきているので、若いお坊さんに気軽に声をかけて話をしてみてください。
話すことで皆さんとの距離も近づきますし、何かいいヒントも得てもらえるのではないかと思っています。
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中島さん、どうもありがとうございました。
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(インタビュー&執筆: 中村 アヤ)
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